短編小説

【短編小説】引キ裂イティング!ーJackal tears “her tears” apart!ー

ーーー彼の、その大きく重たい瞼(まぶた)が、ころころと膨(ふく)らんだ瞳の半分ほどを覆っている。その吊り上がった切れ目も、同様に上に尖った大きな耳も、ゆっくり周囲を警戒しながら、時々、妹の方にも注意を配る。私の方には目も耳もくれない。元々、無感情とか薄情とか評される彼の、心の内は微塵(みじん)も読み取れない。彼の妹は、幼い小型犬のように、私と彼の方を行ったり来たりしながら飛び跳ねて、タピオカみたいに潤んだ瞳で見上げてくる。愛嬌の塊(かたまり)のようである彼女に対し、野良犬のようなその人は、飼い慣らされたものとは異なる、野生特有の匂(にお)いを放ち、コミュニケーションを一瞥(いちべつ)し、“食えない”と捨て、孤独の草原を、絶望の砂漠を駆ける。微笑(ほほえ)みかけようとか、頭一つ撫でてやろうという気には、その時は、全然なれなかった。

愛田 研(あいだ けん)27歳。身長170cm、細身。19歳の照亜(てりあ)は大学2年生で、彼女が高校生の頃から2人で暮らしている。東海地方の国立大学、経済学部を卒業して、国委託の政策金融機関に就職。転勤族のイメージが強い職種であるが、近年の時代の流れか、地域限定の採用枠があった為、この仕事に就いた。
6年目の彼は、元来の割り切った性格をますます研ぎ澄ませ、我が道、獣道(けものみち)を突き進んでいた。「働き方改革!」とか騒がれる前から、余計な仕事、余計な残業、余計な人付き合いなどなど、余計なことに時間を“割く”のを“避けて”、周りの評判なんてこっちから“引き裂いて”、ちぎっては投げ、“引き裂いて”は投げの無双っぷり。
その無愛想(ぶあいそう)さとは裏腹に、声が高い。そう言えば、顔も童顔だ。目付きの悪い中学生が、声変わりせずにそのまま社会人となり、なんでも思ったことをそのまま言うものだから、これはこれで彼の近寄り難さを強調した。

「お兄ちゃん、きっと職場で評判最悪ですよね?」
と、研の同僚で同期の種井 桃花(たねい とうか)に、彼の妹の照亜が聞いた。
「良くない噂(うわさ)は耳にする・・・けど、私はこっちの支店に異動してきたばかりだから、どういう人かまだ分からない、という感じね」
と、桃花は正直に答えた。
「というか、いつまでも分からないかもよ、あの人は」
という口ぶりとは反対に、意地悪い笑顔を浮かべ、兄の方をちらり振り向きながら、照亜は言った。
研と照亜は、職場と大学も近く、彼の仕事終わりに合流し、駅前で食事することが間々(まま)あった。この日も、偶然、桃花が建物を出るところで研と一緒になると、小学生のように小さい彼の妹が、相対的に大きく見えるリュックを背負(しょ)って出迎え、駅に向かって3人で歩くことになった。
「噂ってどんなのですか?」
と、照亜が続けた。
「なんだか、同じ職場で、いかにもラブラブだったカップルを、無理やり別れさせた・・・とか」
桃花が申し訳なさそうに言う。
「ああ、お兄ちゃん、やりそう」
照亜のわざとらしい顰(しか)め面は、やはり、楽しんでいるような様子を拭(ぬぐ)えない。
「普段は全然、他人のこと無関心なんだけどね」
と、付け加える。
「ーーー仕事でも、融資の窓口業務でほとんど門前払いみたいな対応をしてる、とか・・・まあ、これは私もこの1ヶ月で、少し厳しいかな、とは見てて思いますけど・・・うん、でも!仕事はすごく出来る人だなー、って」
桃花は、言いながら、何度か小さく頷(うなず)いた。
「うちのお兄ちゃん、人間関係で悩んだりとか、自己嫌悪とか?そういう他の人がたくさん割くエネルギー省いてますからね・・・もう少し愛想良くてもいいと思いますけど」
また一度兄の方を見て、含み笑い。
そんな様子の妹と何度か目を合わせても、研は、悪態一つ吐(つ)かない。ぶっきら棒に「なんだよ」とでも一言返せば、いくらか人間味があって理解や共感のしようもあるのだが、周囲を見渡すのと同じ鋭い目で妹の方を見返すだけで、他人の桃花から見れば、不機嫌そうにしか見えなかった。
「でも、こうやって時々待ち合わせて、ご飯とかするんでしょ?」
桃花は、後ろの研にも聞こえる程度の声量で尋ねた。
「それは、まあ、家族ですから・・・それに」
言い掛けて、照亜はまた振り返った。
その時、桃花は、駅までのそう長くない道程(みちのり)で何度も見る、照亜の兄への視線の中で、一番本気で、どこか怖いくらい信頼に満ちて、愛や宗教といった大袈裟(おおげさ)な言葉が似つかわしいほどの、生温かいモノを見た気がした。
照亜は、続けて、こう呟(つぶや)いた。
「ーーーお兄ちゃんに引き裂かれてしまう方が悪いのよ」
俄(にわか)には頷き難いその発言に、桃花は、得体の知れない、研と同様の匂いを妹からも感じた。
「そ、そう、ですか・・・」
他人行儀な敬語と諂(へつら)うような苦笑いで。
この人たちは自分とは違うのだな、と。自己嫌悪や他人との背比べ、自分でもとても自慢出来ることではない、そんな懸念たちを抱えながら生きている他者との共感とか、そんなものを不必要と割り切ってしまうような人なのだ、と。心の底で予感してしまった。
その後も、少し後ろのめりな桃花にも全くめげることなく、妹の照亜は、兄の“黒歴史”をどこか自慢気に話し続けた。「高校の時も、自分の親友とその彼女の仲を完膚(かんぷ)なきまでに引き裂いた」だとか、「中学の頃、もらったラブレターを教室でびりっびりに破り捨てちゃった」とか、「そうそう、中学は、卒業の時も、先生への寄せ書きを最後の最後まで書かなないで、それで他のみんながもれなく書いたやつを、それもびりっびりに破いて」とかとか。
桃花は、それらを聞くたび、心臓が引き攣(つ)るような、心が引き裂かれるような、悲痛な思いに悉(ことごと)く打ちのめされていった。
駅前のロータリーに3人が差し掛かった所で、傷心および放心の桃花に、照亜は、
「少し悪ふざけが過ぎました」
と、頭を下げた。
再び起こした顔に、煌(きら)めく仔犬の瞳。
それでも、先程と同じ本気の色を現(あらわ)して、
「仲良くして下さい、とは言いません。それは、兄も望んでいるとは思えないですし」と、前置きをして、最後に、こう言った。
「ただ、兄は、良い人ではないけど、絶対に悪い人ではないので。どうか、そこんとこ、ご理解下さい」
そう言って、戯(おど)けて敬礼して見せた。
後付けで、少し歯を見せて、笑いながら。

2人と別れてから、桃花は、狐につままれたような顔で、帰りの電車に放り込まれた。
しかし、狐にも似たその兄妹が決して化(ば)かしたりなどしない、というのは、本人が一番理解していた。
自分や世間一般と比べて、正義も悪も正面からメンチを切るような2人の印象に、自らの軟弱さを一突きにされたような気がした。
少なくとも、あの短時間でも十分に、自分などには到底計り知れないほどの、2人の強い絆を見せつけられた。
それだけで、彼らが圧倒的に“本物”で、対して自分が“偽物”かのような錯覚を食らった。
彼らが、食べて、笑っている、“それ”が本物で。
自分が、当たり前に食べて、テレビ見て笑っている、“ソレ”が偽物で。
彼らこそが生きていて。
ジブンが死んでいるようなーーー。
その危(あや)うい錯覚は、種井桃花が、それこそ圧倒的に、人に優しくて、他者を尊重する思考の持ち主であるからに他ならない。
あれほどの散々たる愛田研という人間の悪行を聞かされたら、普通ならそれを思いつくままに非難して、自分の弱さなどとは一切向き合わずに済むところである。
こうして、愛田兄妹は、桃花の心に、鮮やかな傷痕(きずあと)を残した。

種井桃花は、3月末の春の定期で、研と同じ支店に異動してきた。
持ち前の人の良さと真面目さで接客や後輩からの評判は良かったが、一方では、政策金融という性質上の様々なジレンマに正面からぶつかることも多く、職場が変わったのを機にそれが露呈(ろてい)した。ノルマと働き方改革、民業圧迫と経済貢献、時代とともに変化を求められる理想と現場の現実、これらが支店毎のやり方、考え方の違いと一緒くたに、彼女に押し寄せたのだった。仕事を溜めてしまうことも多く、限られた残業時間と上司の目を盗んでの朝夕のサービス残業で、なんとかやり繰りをしている状況。粉骨砕身(ふんこつさいしん)、と言えば聞こえが良いが、同僚の中で最もバリバリと、心身を削る音を立てながら働いていた。
その順調とは言えない現状の一つの要因として、上司との相性があった。
桃花や研の上司の馬場は、冷めたリアリストで、研とは仕事上は気が合った。少なくとも周りからはそう見えた。毎日夕方4時にはスマホのアラームが鳴り、部下の仕事の進捗と指示を出して回る。5時には自分の机の上を綺麗に片付け、5時10分に会社を出る。
そんな馬場の目に、桃花の仕事ぶりは、余計な仕事を増やす、ルーティンの効率化もない、典型的な「仕事の出来ないヤツ」という風にしか映らなかった。
異動初日から「ここではそんなことしなくて良いよ」と、前後もなく、その言葉だけが、馬場から桃花に告げられた。この言葉は、それからも、頻繁に、その都度、徐々に語気を増して、恣意(しい)的に浴びせられた。
他の社員たちが、この発言を「上司命令」から「上司責任」へと変換し、事務的に納得するところを、桃花は、そもそも論で捏(こ)ねくり回し、拗(こじ)らせ、自分の中に溜め込んで、かつ表面上は上司の機嫌も伺いながら、さらにエネルギー効率の悪いループへと墜(お)ちていったのだった。

桃花が異動してきて2ヶ月が経った頃。
この日も、彼女は、熱心な整骨院創業の持ち込みの計画書を、一度預かる判断をした。
唯一、顧客のためにも親身になって、桃花の意図も組んでくれる先輩社員の落合に相談をしていたところが、ちょうど出戻った馬場の目に付いた。
「なんだ、種井。また個人創業か。いくらだ」
「・・300です」
桃花は、馬場の正面を向き、手の平を体の前で組んで、少し俯(うつむ)いた。
「うちの融資歴は・・・まあ無いよな」
「・・・はい」
馬場の顔を見れないほどに、桃花の顔が下を向く。
「じゃあやめろ。だいたい、お前の個人融資で良いことがあった試しがない!おしまいおしまい」
遇(あしら)うような口ぶりで、馬場は、すぐ自分の机へと向かいかけた。
この時、桃花は、他人の人生を左右する判断において、その内容で、誠実に判断しよう、といったような気概が全く感じられない馬場が、「嫌いだ」と思った。
温厚な性格の彼女の頭に、久しぶりに、血が駆け上がる。
「ちゃんと内容を精査して!」桃花の強い語気が、その言葉を一瞬命令形とも聞き違えるほどだった。「ーーー判断してあげないと!」
「あのなあーーー」歩みを止めて、馬場が、上半身だけで振り返る。「お前にその判断が出来ないから!落合の手を止めさせてまで巻き込んでるんだろ!みんな限られた時間でやってるんだ!邪魔だけはするな!」
桃花は、何も言えない、ただそう思った。
「落合の手を止めて」とか、「みんな」とか、そんな言葉が、彼女の熱意を、その熱量の全てを吸い上げて、自分の身を焼くべく、浴びされた。
「ふぅー」
馬場は、自分の席まで行くと、わざとらしく体重を椅子に投げ、わざとらしく息を吐いた。
感情を揺さぶられた時点で勝敗は決していた。自分の無力さ、ダメさ、嫌なところ全てが桃花の内側に流れ込んできて、どうしようもなく座り込みたい衝動に駆られる。それでも、感情任せでも、この人に屈したくはない。以前の職場の、桃花を可愛がってくれた上司の顔が目に浮かんだ。
「ーーー前の支店では!!」
それは禁句と分かっていて、今まで何度も抑えてきた言葉。
自分の未熟さを露呈すると分かっている言葉。
それでも牙を剥いた、とも言える、桃花の精一杯の言葉だった。
それがまだ発言の冒頭と分かっていて、馬場はすぐに遮った。
「ここは前の職場じゃないんだよ!!ーーー時代もやり方も」そこで一度、馬場の声が途切れ、すかさず大きな落胆のため息を吐いてから、「おいおい!勘弁してくれよ!泣いてんのか?」
桃花が顔を伏せる。
「ちょっと誰か外連れてってくれ!邪魔だ!」
頭に上った血流が行き場を失い、送った水分は桃花の瞳から溢れ出していた。
渾身の言葉とほぼ同時に。
負けると分かっていて。
叩きつけた勢いで。
桃花は、とうに体の前から解いていた両手を、体の両脇で固い握り拳にして、全身も突っ張るようにして、なんとか直立していた。
周囲は静まり返っていた。
馬場が再度促(うなが)そうというその時、研が立ち上がる。
馬場は、それを見て、少し安堵し、カバンから出し掛けていた書類に手をつけ始めた。
研は、小刻みに肩を震わせる桃花の正面に向き合い、少し前かがみになって、彼女の顔を覗き込んだ。
桃花は、覗き込んできた研の瞳が、重たい瞼を押し上げて、普段の倍くらい押し開けられていることに少し驚いた。
大きな大きな黒目。
その吊り上がった、普段は半分以上覆われているその瞳は、膨らみがあって、広く見渡せそうで、そして、何より、吸い込まれるように深く、澄んだ黒だった。
感情の激流に飲み込まれながらも、桃花は、その黒を、大粒の涙越しに睨(にら)み返した。弱い自分が表れた震える下唇を懸命に咬み締めながら。荒れた息で鼻の穴を膨らませながら。
弱ったところを、生きたまま、内臓を抉(えぐ)られ食べられてしまう野生の鹿にでもなったような気分で、桃花は身構えた。
「職歴は?」
研は、聞いた。
「・・・同種の職業で、6年間、院の雇われ責任者をしていました」
桃花は、感情を整理することなく、研を睨みつけたまま、マルチタスクで答えた。
「奥さんは?」
問い掛ける研も微動だにせず、その大きな黒目が見つめるまま。
「今はデイサービスのパートタイマーですが、看護師資格持ちです」
桃花は、頭に入っている相談者の情報をAIのように検索、提示していく。
馬場は、その光景に少し呆気にとられ、得意の遮断機(しゃだんき)を下ろすタイミングを見失っていた。
「損益計画、資金繰り計画は問題ないんだな?」
「はい。もちろんです」
「じゃあ最後に。その人は種井から見て、“どんな印象”だった?」
ーーー意外な質問。
それまで感情と切り離して、マルチタスクで答えていた桃花のAIが沈黙した。
捕食の危機に瀕(ひん)し、本能的な解放からも潤(うる)む野生の瞳に、人間の理性や感性の色が戻る。
仕事のやり甲斐、政策金融の意義、ジレンマで歯を食いしばっている“人間”の桃花でなくては答えられない質問だったから。
涙は止まり、血液が音を立てて脳味噌へと流れ込む。
「ーーーはい!この方は、別紙で創業動機を持って来られて、その熱意を語られました!不器用そうな方ですが」
“動機”や“熱意”という単語に条件反射して、遅ればせながら、馬場が、
「そんなもん読むだけ無駄だ!」
と、桃花を遮った。
だが、厳密には届かない。
桃花の心に再び下ろされかけたそれを、間に立つ男が、呆気(あっけ)なく受け止めた。
「いえ、創業融資においては極めて重要です。それに、リスクの大きいこのジャンルの融資こそ、言うまでもなく、政策金融の意義でしょう」
当の本人には全くもって無自覚なこの発言もまた、周囲にとって意外だった。
その驚きで、馬場も固まる。
先の後天的、文化的反射と違い、想定外の状況に遭遇した動物的硬直。
怯(ひる)んだ獲物。
鋭い牙の一匹は追い討ちをかける。
「その判断、“人を見る目”というのが僕には全くありません。ですから、判断出来ない以上、僕なら断ります。はずれくじだと思ってもらうしかない。熱意がある人間なら、もう一度チャレンジしてくるでしょう。しかし、種井はその能力に長けています。後輩にも適材適所で、いつも上手に仕事を振り分けていますから」
ここで、研は一呼吸置き、緊張している馬場に“わざと”時間をやった。
馬場の後ろの壁、掛け時計の秒針が3度鳴る。
サバンナで“捕食者”と“被食者”が向き合い、互いの運命を覚悟するには十分過ぎる時間。
この完膚なき徹底っぷりが彼のやり方だった。
「じゃあ、種井、続けて」
研が、ゆっくりと促す。
桃花は、研の援護に少し戸惑いながら、続けた。
「動機から熱意はとても感じられました。語られる様子も、不器用だけど、有言実行、義理堅く、必ず仕事として成立させる、もし何か想定外のことで上手く行かなくなっても、必ずお金は返す、そういう方だと感じました」
「そっか。そこまで条件が揃えば、僕なら融資決定ですね」
一度桃花を向き直していた体を、再び翻(ひるがえ)しながら、研は言った。
「好きにしろ。時間の無駄だ・・・各自仕事に戻れ」
走り去る馬をジャッカルは逃がさない。
最高速度は馬にも劣るこの動物の最も優れた能力は、持久力、獲物が疲れて座り込むまで追い掛け続ける力。
「本当に時間の無駄です。種井は、今みたく的確にガイドすれば、あとは勝手にこの部署に貢献しますよ。部長が先程言いかけた、時代もやり方も変わって、というのがまさに答えです。今、銀行や国民に、その存在意義を揶揄(やゆ)されながら、ノルマもこなさないといけない状況で、彼女のような能力に長けた人間を上手に使って、創業融資を小さくても積み上げていくのが必要です。現時点で一番問題なのは、部長の、そんなことやらなくていい、という業務命令を真に受けて、若手が全く仕事をしていないこと。チェックの手間の少ない、過去に融資のあるもの、実績のあるコンサル経由のもの、そういうのに絞り過ぎ。簡単なものほど、民業圧迫の批判の的だし、そんなの取り合ったって先細りは明白です。部長は“前の支店では”そうしていたんでしょうが、部長が来る前の方がまだ創業融資の成果は上げていました。少しは種井のような精査する能力を若手にも教育して、限られた時間で、給料分の仕事をさせて下さい。僕は、今回のように、仕事をしない上司に振り回されるのはごめんです」
口を半開きにして呆然とする馬場が我に返った時には、机越しに目の前まで、研が詰め寄っていた。
見たこともない、目を大きく見開いた獣に、自ら両手両足を投げ出し腹を見せ、ただただ捕食されるのを待つ動物のズボンのポケットから、夕方4時のアラームが鳴った。

5時10分の定時で職場を出て行く一匹のジャッカル。
その後ろを、同期の27歳女子がスキップ混じりで追い駆けた。
「今日はありがとうございました。お礼に晩ご飯でもご馳走させて下さい」
「お礼されるようなことはない」
「・・私が奢(おご)りたいんです」
「それに、今日はーーー」
と、言いかけた研に、桃花も思い当たる。
「もしかして妹さんとご飯ですか?」
「そう」
「ならちょうどいいじゃないですか。照亜ちゃんにもご馳走したい気分なんです」
「よく分からないけど、まあいいか」
「なんだか奢ってもらうのに偉そうですねー」
目の前で、顔の向きも、表情もころころ変わる桃花を見て、研は、妹の姿とダブらせた。
「偉くない。だから敬語じゃなくていい」
「あ!そう思ってたんなら言って下さいよー。なんだか愛田さん、取っ付きにくくって、仕事だしいいかなって、敬語続けちゃって」
「別に、そう思ってた、ってわけじゃない。普段仕事以外で話すことないから、今思った。愛田さん、の、さん、もいらない」
「じゃあ、愛田くんで」
「まあ好きにして」
2人で建物を出ると、小型犬が大きなリュックを背負って、道路向かいの公園から走ってきた。
「お疲れ様です!桃花さん」
「覚えててくれたんだー、嬉しい」
小型犬の妹が、その弾んだ声に反応し、耳を立て、鼻を動かすように、実際は、桃花の顔をじっと見つめた。
「覚えてますよー。もちろん」
と言って、思い切り作り笑いをする。
この3人となればお決まりのように、桃花と照亜が前に2人並んで歩き、後ろから研がついて行く。
桃花から今日の奢りの話を聞くと、
「え、どうしてですか?」
と、照亜が少し真顔になった。
「今日仕事で助けてもらってね。そのお礼」
「そんなのー。うちのお兄ちゃん、絶対!桃花さんの為とかそんなんじゃないですよ!」
「いいのいいの」
「だいたい、自分の為と家族の為の2択しかないんですから!お兄ちゃん」
「へえー、家族思いなんだ」
と、桃花は、咬み締めるように言った。
その横顔をじっと見つめている照亜の視線には気づかずに。
「ねえ、なんだっけ。愛田くんがラブレターをびりびりに破った?とか、色々そんな話あったでしょ?あれって、どうしてだったの?理由があるんでしょ?」
と、桃花は、あの“いたたまれない”話題に触れた。
「あ、聞きたい?」
照亜は、前にも見せたあの意地悪な笑顔で、兄の方を見た。
研は、わざとらしく少し大きな声で話す女性陣に、無関心を決め込んでいる。
その様子に火がついた照亜は、決壊したダムの如く、桃花が聞いてなかった話まで、その種明かしとセットで話した。
蓋(ふた)を開ければなんてことはない、中学時代のびりびりのラブレターは女子のイタズラだったし、先生への寄せ書きはその教師に日頃から苛(いじ)めじみた扱いをしてきた生徒たちが悪ふざけで書いたものだったらしく、高校時代の親友カップルを引き裂いたのは、当時進行形ではなかったものの、その後相手の女の子が平気で3股4股するタイプの子だったと分かったとか。
「なんかうちのお兄ちゃん、頭もいいんだけど、それ以上に鼻が利くというか、地獄耳というか、よく見ているというか、なんですよ」
その後、続けた照亜の言葉が、桃花には印象的だった。
「なんだろう、裂け目・・・のようなものを見ると・・すぐ引き裂いちゃう。そういう性分なんです」
と、自分のことでもないのに言い切る照亜を見て、桃花は、改めて、この兄妹の絆を感じた。

駅前のファミレスでパスタを食べながら、桃花が、正面にいる研に聞いた。
「愛田くん、どうして今日助けてくれたの?」
研は、表情を変えず、答える。
「お礼されるようなことはしてないと言った。・・・ただ」
「ただ?」
桃花は彼の答えを待つ。
「種井は、同僚が見ている中、直属の上司にあれだけ言われても・・・、種井の涙は、屈していなかった。涙の、裂け目が見えた」
桃花は、その言葉を聞き返したくなるのを抑えて、聞いていた。
照亜も、横で話し出した兄の顔を見つめる。
研は、自分への注目も意に介さず、続ける。
「ーーー馬場の体制の職場は、客観的に見て良くないとは思ってたけど、僕1人では特に何をすることもなかった。意見したところで職場が変わるまでには至らないと思った。今日、種井の涙を見て、そこに裂け目が見えた。種井が落合さんあたりと協力してこの職場を変えていくんだろうな、と思った。ただ、それが1年先か2年先か分からなかったから、少し焦(じ)れったかった。それだけ」
と言って、研は、何もなかったように目の前のドリアを食べる。
桃花は、自分の視界がまた滲(にじ)み始めているのに気付く。
瞬間、そのぼやけた世界に、彼女にも一つ見える。
ーーー裂け目!
それが焦れったくて。
一気に引き裂きたくなって。
引き裂いた!
「愛田くん、大好き!」
照亜が、最初にびくんと反応して、背筋をぴんと伸ばし、耳を立て、すぐさま桃花と研を見る。
研は、ドリアに上半身を傾(かたむ)けたまま、
顔だけ向かいの桃花を見上げ、
たちまち目を見開き、
「僕も」
自分もそこに見た裂け目を、いつものように、引き裂いた。

-短編小説

Copyright© なにか飲みます? , 2024 All Rights Reserved.