※神之塔の登場キャラクター「カラバン」を中心とした二次創作小説です。二次創作が苦手でない方、神之塔485話までを読まれた方向けの内容であることをご理解下さい。種類としては、できるだけ"原作の設定や事実に沿った"創作となります。カラバンおよび第4軍団の、本編の合間にあったかもしれない時間を楽しんでもらえたら幸いです。
※当作品内では、所属師団が不明な一部のキャラについて、独自の想定を含んでいます。
<登場人物>
ーーザハード軍第4軍団ーー
◯(元)第4師団長 ユルカ
現第4師団 小隊長。ハイランカー。カラバンの2階位の従者。従者の中で最もカラバンへの信仰が厚い
◯第4師団員 ティンカー・ヨルチェ
3階位の従者。カラバン隊に入る前も後も、いつもユルカ、ロッチェと3人でいる。話中の巣の戦闘ではすでにエヴァンケルの攻撃で死亡
◯第4師団員 ティンカー・ロッチェ
3階位の従者。ヨルチェの双子の弟。話中の巣の戦闘ではすでにエヴァンケルの攻撃で死亡
◯(元)軍団長 カラバン
現第4師団 中隊長。ハイランカー。軍に入る前は人間ハンター/コレクターとして塔に名を馳せた
・第2師団 副師団長 青ドリアンフロッグ
ハイランカー。2階位の従者。カラバン隊の最初のメンバー。相棒は古代蛙の神海魚ポーラックで、普段はフロッグの持つ井戸の中にいる
ーー反ザハード勢力ーー
・ホワイト
FUG。全盛期は、ハイランカーで、スレイヤー"10番目の権座"。十家主3強のアリエ家で、唯一無二の剣術を有する
・二十五日の夜/ジュ・ビオレ・グレイス
非選別者。FUGの新スレイヤー候補。巣に封印された真田ユタカを取り返すべく、このたびの戦争を起こした中心人物
・カラカ
FUGの若きスレイヤー。ハイランカー
塔の外には空。
さらにその外には、神之水の一切及ばない、音も光さえも届かない「真の空」が無限に広がっているという。
その無限の彼方から唯一この塔へと届けられる「星の声」を聞くことだけが、私たちの使命だった。
太古の頃、塔の外から来た神の使いは、その声を聞くためのアンテナ「望遠鏡」を残していった。
ある神勅とともに。
ーー遥か「真の空」より、お前たちに届けられる「声」を絶対に聞き逃してはいけない。その「星の声」こそが、塔の人間、生物らの死と生、運命と抵抗、互いに相反するものすべてを一つにし、お前たちに新たな進化をもたらす祝福の道しるべだーー
私たち3人の運命は、「望遠鏡」の一部としてあり続けることだった。
そうであるべきだった。
小隊長ユルカは、思い出した。
第2防壁の方へと向かいながら、自分の一番古い記憶を。
入軍後は一度もなく、本当に久しい回想。
なぜ今?
"2つのアンテナ"を失ったから?
いえ、ヨルチェもロッチェも、あの時からカラバン様のコレクションなのだよ。
エヴァンケル……あぁ恐ろしき地獄の悪魔。
私は悲しい?
それとも嬉しい?
それらの思考は、彼の干からびた心を揺らすことなく、ふわりと鼻先をかすめた。
ユルカは、いまだ非選別者抹殺の知らせのない、ただ一人の主(あるじ)の元へと急いだ。
到着した第2防壁前は、彼の想定とはだいぶ違う戦場だった。
軍に加担する桃園と同じく、封印から目覚めたという戦士が一人。彼が非選別者に同行しているのは把握済み。
さっそく殺すつもりで背後から直撃させたユルカの放がその男に傷一つ与えなかったこと、その彼が左腕に抱えたスレイヤーカラカの存在、これらは若干の想定外。
「あんたは誰だ?」
無傷の戦士にじっと睨み返されただけで、ユルカは、追撃の手を止め、自己紹介を余儀なくされた。
「カラバン様の従者です。カラバン様を邪魔するなら私を倒してからにしてください」
実力差からくる心身の強ばり、それとは反した不敵な笑みでユルカは言った。
強者の権利とでも言うかのように、男はほとんど余所見をしながら「気味の悪い野郎だな…」とつぶやく。
その彼が常に注意を向けている先こそ、ユルカの感じた最大の違和感。想定外の元凶。この戦争の、反乱勢力の中心と言える人物。
非選別者。
まさに今、その少年が、手にした盾のようなものと引き換えに、"最強"の一撃を受けきった瞬間だった。
対するはザハード軍最高戦力、元軍団長カラバン。ユルカが崇拝する主である。当然この戦場においても最強であるはずの武を前に、たかだかスレイヤー候補の少年が、今まで生き延びていただけでも奇跡と言える。
その奇跡が、周囲を巻き込む運命的な力だけでなく、彼自身の内にある特別な力や意志によって起こせる類のもの、とユルカも目の当たりにした。
ーー危険な人間だ。
ユルカは、直に感じたことで、件の非選別者に対する認識を即修正した。その素直さは、ほんの1%でも主の危険になり得るならば、と考える従者の気質に起因する。
ーー面白いヤツ。
例のごとく並列して込み上げる、反対の感情。
しかし、鋭く見据えた先の対象が、すでに幾許(いくばく)かの未来しか持たない運命を、ユルカは確信した。
「トドメだ」
と、主の声が聞こえたのだ。それが本当に発せられた声かは分からない。主の思いが、冷たく、熱く、静かなものとして、彼の耳に届いた。
ーーおしまい。いつだって呆気ないものです。
武の浄水をもってした渾身の二撃が、非選別者に襲いかかる。
ーーいいえ、終わりではありません。これは祝福。主の導きはいつも一瞬にして劇的。そこにどんなに強い意志や多くの人の思い、途方もない歴史が込められていようとも……。
ユルカは、その瞬間を、自らの過去の"統合と再生"と重ねつつ、まぶた越しに見送る。これまで何度もそうしてきたように。
盾も失った非選別者は、無策にただ受け止めようという構え。
カラカを抱えたままの戦士と、あの桃園までもが介入を目指す初動。到底間に合わない。
純真無垢な魂、香(かぐわ)しいその頭部からの流血、コントラスト。真っ直ぐな瞳の非選別者の表情が歪んでいく。
つられて、ユルカの顔面に張り付いた笑い、その口角が吊り上がる。
ーーおぉ祝福の道しるべよ!!
それは、ユルカが恍惚に身を委ねて仰ぎ見た上空より、振り下ろされた。
その場の誰も見たこともないであろう恐ろしく鋭い"剣"の一閃。まず多くの者の脳裏に十家門「アリエ」の名が過ぎったことだろう。
非選別者の運命がまた一つ斬り開かれた。
一同が見上げた先より、燦然(さんぜん)と降り注ぐ光。
見紛うほどの神々しさ。
気高い。
白。
周囲の神之水を従えて。
ユルカの主が、その偽者の神の名を「ホワイト」と呼ぶ。
スレイヤーホワイト。終着駅での副軍団長と2つの師団との交戦、カラバン様との先の城壁での戦闘については聞いている。局所的に軍団長にも匹敵する戦いを見せたというが、まさか完全に力を取り戻したのか。
しかし、そんな警戒理由より何より、この従者の感情はひたすら煮えたぎっていた。
偽りの神が、主の頭上に立ち、恣意的に見下ろしている。すでにその目付きだけで判決は下りていた。
さらにホワイトは開口一番、こともあろうか主を侮辱する発言を"何か"言った。
多少の距離があろうともユルカは"声"を聞き逃しはしないーー彼の半生はそのためだけにあったようなものなのだから。一度しかと聞き取ったあまりに愚かな言葉は、即座にどうでもいい"何か"へと気化され、空に舞った。もう言葉は不要。
ーー私にとって重要なのは、お前への殺意だけだ!!
ユルカのちぐはぐな顔は、周囲から見れば二の腕を摘まれた程度のわずかな嫌悪。
霧のような神之水を自身の周囲に展開する。
右手の平で照準と合図を兼ねて、感情の留め金を外した。
ーー腹立たしい……。
ほぼ同時に、主の制止する大声。
それともう一つ、高みから振り下ろされた、無色のかすかな声が、ユルカの耳元で囁くかのように届いた。
ブシャッ。
堅く乾いた骨は音も立てず、弾力ある肉の切断面からのわずかな摩擦音と、体液の飛び散る音のみが、重なって一度響いた。
ホワイトの見事な一振りが、ユルカの攻撃する意識と、その命令が神之水へと届くまでの、わずかな時の隙間に差し込まれたのだった。
突き出したユルカの右手、親指以外の4本が、綺麗に舞った。
「あっ……!あぁっ……!?」
ハイランカーの鋭敏な感覚がもたらす激痛。
さすがの彼も、痛みと止血、断面の回復に意識を削がれ、続けざまに語るホワイトの声を点々と聞き漏らす。正確に言えば、"あの時"以来すっかり止んだ砂嵐のような雑音の中で、ユルカは所々ホワイトの言葉を拾った。
「感謝することだ」「朕の崇拝者」「目尻に血を塗る」「異端者の象徴」「貴様もそういう連中の片割れ」
侮辱され手加減された怨敵から告げられる自らの系譜。それらの単語が、生ぬるい血の雨となり、ユルカの混濁する意識へと降り注いだ。
ーーカラバン様とホワイトが、拳と剣を、交わしている……。
ズゴゴゴゴゴ。サァーッ。ゴロゴロッ。バババン。
ーーあの砂嵐に似た雑音……早い鼓動……。
シャーッ。シャーッ。シャーッ。ゴゴゴゴゴゴゴゴゴ。シュカァァァァァン。
ーー"あの場所"にいた大人たち……FUGや何か汚れた思惑と……私たちの運命も誰かに……。
ズゴゴゴゴ。
カーン。カーン。カーン。
ーーー。
彼の意識が、戦場から記憶へ、外から中へと、沈みかかる。
「ユルカ」
主の呼びかけにユルカは覚醒した。
彼の状態を知ってか知らずか、主は従者に、ホワイト以外の「ーー他の者たちの防壁への接近を阻止をしろ」と、命令した。「ーー私とあの男の戦いでお前にできることはおそらく何もない……」
「はい」
ユルカは速やかに防壁のそばへと移動した。戦場でもこうして主の意のままに動けるよう、小隊長への降格を志願したのだ。
案の定、まもなく非選別者とカラカたちが防壁を狙いに来たが、ポケットの通信を受けた様子からすぐに反転、遠ざかって行く。
ユルカはそのまま、主の命令に従って防壁に張り付き、索敵も兼ねた霧の神之水と聴覚のアンテナの感度を最大限に高めた。
絶えず戦場のどこかで鳴る爆発音が、背にした巨大な防壁から体全体に反響する。
エヴァンケルに燃やされ、この戦場に散ったヨルチェとロッチェの魂ーー。
ホワイトの言葉ーー。
何かに手招きされるように過去の影の中へと、慣れたやり方でアンテナだけは張ったまま、ユルカは、分離した意識だけを沈めていった……。
いつも
砂嵐のような雑音の中に、私たちはいた。
いつも
鎖で繋がれたように一緒に、私たちはいた。
いつも
夢と現実の境目もなく、私たちはいた。
いつも
昨日と同じ今日も
そうしているのだと思っていた。
朝、同じ時間、同じベッドで、3人で目覚める。
「変わりないね?」
「うん」
「うん」
アンテナの2人に、私がいちおうの確認をする。
3人でシャワーで身を清め、私が2人も拭く。一枚の大きなタオルで。
私はいつもシャワーの後、鏡に向かって、下まぶたに赤、目尻から下へ大きな牙のような黒のラインを引いた。これをすると、自分が人間ではないのだ、と、神に身を委ねられる心地がした。
食事はボウルにオートミールを3人分。
自分の一口で温度を確かめてから、
「はい」
と、私が大きめのスプーンを口元に持っていくと、ヨルチェが口を開ける。
次の「はい」でロッチェ。
単調にボウルの底をかすめるスプーンの音と私の声だけが繰り返す食卓。朝も昼も晩も。
私たちは静かに呼吸して、「星の声」に耳を澄ますだけ。
ーー今思うと、大きめのスプーンも、渋くとも大きめにちぎって口へ押し込んだ名も知らぬ柑橘類も、2人は少し苦しそうに何も言わず飲み込んで……ちょっと可哀想だったかなーー
ヨルチェとロッチェは、生まれてすぐここのアンテナ「望遠鏡」の増幅機になった。双子ということも、彼らが持って生まれた神之水の性質ーー他の力を増幅する能力ーーも、そういう運命だった。まだ幼く未発達な2人の能力を極大化するために、大人たちは2人の腕を体の後ろに縛る呪術をかけた。実際その制約で彼らの能力は飛躍的に向上したのだ。
ここにいた人間たちは全て「望遠鏡」のためにあった。2人の子どもの両手が不自由になることと比べるまでもなく、そのアンテナの感度を高めることこそ至上だった。
私も2人と同じ。先天的か、生まれてすぐなのか、視力を完全に失っていた。それもまた、「望遠鏡」にいつの日か届くとされる「星の声」、塔の外から授けられるというその声に、傾け続ける塔の「耳」として生きる運命だった。
ベッドも食器もバスタオルも少し大きめの1つ。私たちは3人で"1つ"、ただ「望遠鏡」に備え付けられたパーツに等しかった。
食事や睡眠の時間以外はずっと屋根の上。
「望遠鏡」の中心に私が、そのアンテナの両端にヨルチェとロッチェが、ただいるだけの永遠に続く時間。
その場所へ来ると、より大きく、鮮明になる砂嵐のような音の中へ埋もれていく。
ーーあの時間、ヨルチェは、ロッチェは、いつもどんなことを考えていたのだろうか……過去は変わらない。そして、未来は何の前触れもないーー
「誰かが近づいてくる!」周囲の索敵は私の役目だった。
呆気なく。劇的に。何かが失われ。何かを得る。
長く、短い、あの生活の終わりは、突然、嵐のようにやって来た。
わざわざこの僻地を訪れる者などほとんどいない。この100年で一度FUGを名乗る人間ーー死んだ大人たちの知り合いだと言ったーーが来たが、その前はもう覚えてもいない。
そんなことをぼんやり考えながら、1キロ先から真っ直ぐこちらへ向かってくる危うい気配を待った。ヨルチェとロッチェは、棒のようにいつもの形で固まったまま。私たちに逃げるという選択肢はない。
「道にでも迷ったのですか?」
2人の訪問者がようやく屋根の上に現れたところで、私から言った。聞いたのではない。この時すでに、私の感覚は、手前の屈強な戦士の凄まじい圧を受けていた。
「ユルカ、ティンカー・ヨルチェ、ロッチェ。俺の仲間になれ」その男の、淀みない冷酷な視線を眉間のあたりに感じる。
「くだらない……」その言葉はーーいや、どんな言葉もだーー、私たちにとっては白紙の手紙に等しかった。タイミングや手順より前の問題。おかげで、頭は冴え、全身の緊張もわずかに緩まる。
ポケットの識別は、「カラバン」「青ドリアンフロッグ」対する2人の名前と、どちらもハイランカーであることを伝えた。たとえ数名のハイランカーであろうと並の実力なら、私たち3人でゆうに退けられる。しかし、もし相手の力が、ランキング300位圏内で複数の、あるいは、たった1人でも100位クラスのそれだったなら、事態は一方的で悲惨なものへと豹変するだろう。さきほどから私の直感は、最悪な結末を強迫し、絶えず呼吸を締め付けていた。
「カラバン様。ここは俺っちが」と言いながらフロッグという男が、手にした武器を私たちの方に傾ける。「ーーこんな塔の外側に近い辺鄙(へんぴ)な場所で、アンテナと暮らしているような人間とまともな会話ができるのかも怪しいっすよ」
「私たちはこの望遠鏡を守るだけです」私は、左右に伸びたアンテナと同じように両手を広げて見せた。言葉の意味そのままというよりは、動物的な威嚇(いかく)に近いものだったろう。
「ほらやっぱりっす。こいつらカラバン様の力を感じてるんだろうに、少し笑ってますよ。気味悪い……」
「ここにお前たちの他に人間は?」と言うのはカラバン。もう一人の口ぶりや伺える実力から明らかな上下関係があるようだ。
人質や脅しの類を期待していたのなら残念。「とうの昔に、この場所には私たち3人しかいませんよ。大人たちは、ある日、外へ出かけたきり帰りませんでした。どうやら出先でザハード軍に反乱分子と誤解されて、皆殺しにされたそうです」
「そうか」その一言の声色、自らの肉体を全て律した不動の様子から、カラバンという男も、私たちと似た仕組みの、乾いた人間なのだと分かった。それにしては次の質問は少し意外であったが。「ーーザハードを恨み、復讐の戦いを望むか?」
そういう説得だろうか?少し腑に落ちない私は、相手を注意深く観察しつつも、話を続けた。
「いいえ全く。ここにいる人間は、この望遠鏡のためだけにあるのです。塔を支配するザハードも、それを討たんとするFUGという宗教じみた団体も、人の死も、私たちには等しく無意味です。そして、いつか"星の声"が届く時、この塔の有象無象を一つにして、新たな進化への祝福のーー」
「あぁ〜いや……これはだいぶっすよ、カラバン様」大きめの声で、従者のフロッグがさえぎった。「だいたいこいつらもこの辺りでは星の声教とかってーー」
「いい……」
と、さらにさえぎったのはカラバン。男は、ただ黙って、あの冷たい目で私を見つめていた。その様をこの目で見ているかのようにはっきりと感じられたほんの短い時間。
「では決して譲れぬだろうな」次に口を開くと同時、彼は右の拳を握った。言葉の真意はよく分からない。共感とも決意表明とも量れないーー次の動きを見て、あの時の私は後者と確信したーー言葉のあと、「武の浄水」そう発した彼の右手の甲が突然光を放つ。
隣でその様子をフロッグは、黙って見つめている。
カラバンの右腕に膨大な神之水がみなぎっていくのを前に、私は「ヨルチェ!ロッチェ!」2人の名をはっきりと呼んだ。霧のような私の神之水を、両翼の彼らの神之水で極限の密度まで増幅し、望遠鏡の前面に花弁のように展開させた。
相手の漏れ出す神之水でさえ、まるでAランクのニードルのように私の領域を刺してくる。すごい!これは恐怖と言えるかな。しかし充分だ。私の経験が告げている。最大火力で迎え撃てば、防げる。全てとは言えなくとも。
こんな時、私は、自分の顔がひくひくと笑っているであろうこともまた、経験的に知っている。
「辺境の閉じた地で……古(いにしえ)の慣習を守るか……」
それは、隣の従者にも聞こえないほど小さな彼の声だった。
確かにカラバンはそうつぶやいた。
私の耳にだけ届いたその言葉の意味に、思いを巡らす時間はなかった。
まさに今、みなぎった神之水が、あの右拳で爆発する前の急な収束を感じたからーー。「来る!!」
ショートアッパーのフォームで繰り出した右手の甲が、私たちに向けて一段と強い光を放つ。
「バックラッシュ ボンバー!!!」
瞬間、その光源から、私が展開した正面の神之水をすり潰すように、巨大な負荷と音が……!
ーーー来ない!?
そう見誤った結果は、張り詰めきった最高潮のほんの直後、抜け落ちた意識の刹那に、すでに起きていた。
その"起きてしまったこと"の余波が、強い衝撃として、私の背中を押し出した。
ーーー後ろ!?
体が人形のように前方に舞う。
ヨルチェ、ロッチェ、どちらかがやられた!?違う!
そうして周囲を確認し始めて、やっと認める。
盲目の私が、無意味なことに体ごと真後ろを振り向き、力なくそれと向き合った。手が届きそうなほど近づいた敵たちへ弱々しい背中をさらして。
「…………望遠鏡……!!」
神之水の手触りが教えた"何もない"屋根上の景色。"そこにあった"という痕跡全てが綺麗に消え去っていた。
それだけが消え失せ、私やヨルチェ、ロッチェは消えていないという現実。「矛盾してる……!これはなんだ……!!」さきほどの卑屈な笑顔とは比べ物にならない、抑えようのない笑いが込み上げる。「……くっ……ぷはっ………はははは」
せきを切ったような、全身全霊の大爆笑。
膝から崩れるなどという可愛いものではなく、そのまま私は、敵の前で笑い転げ、屋根の上をのたうち回った。
ーーこの時、当時の私の意識は完全に飛んだ。再び戻るまでの間の出来事は、知覚に刻まれていたものを拾い集め、いくつかはフロッグに聞いたりもして構築した、リプレイ動画のような記憶ーー
ひとしきり転がった私が、窒息寸前で深く呼吸して空を仰ぎ見た時、ふと足元に認めた敵の存在に、噴出した殺意と神之水を放ち、そのまま攻撃へと転じた。
悠然と立ったままのカラバン、その上半身に被弾。
それに合わせてヨルチェが、神之水の泡を口から吐き、敵前方を包囲する。
主人からの合図があったらしく、フロッグだけが数メートル後方へと下がった。
泡の隙間から、今度はロッチェが足技の格闘戦を仕掛ける。上下左右。屈強なカラバンの首、ひざ、関節や急所を次々狙うも、「くっ」と時々漏れる苦痛の声は攻撃しているロッチェ自身のものだった。
相手の反撃は今の所ない。
格闘の死角となるカラバンの背中めがけ、私は、鋭く整形した霧の神之水を次々と撃ち込んだ。
しばらくの乱打から、一度息を吸うタイミングで、私たちは揃って敵と距離を取った。
「武の浄水」ほぼ同時にカラバンがまたそれを口にすると、右手から放つ光と衝撃がヨルチェの泡たちを1つ残らずかき消した。
そこにはっきりと現れるーーフロッグが言うには神之水強化を一切していない状態でいてーー無傷のカラバン。Tシャツだけに残る激しいダメージとの異様な対比が、さらにその事実を浮き彫りにする。
「撃ってこい。さきほど撃ち損なったお前の最高の技を」
カラバンは、洗練された神之水を全身にまとった。腰を落としながら、ゆっくり両腕を顔の前でクロスさせる。受け止めてやる、と全身で言っている。
「どの口が……私が攻撃して何になる!!!」私は、まるで子どもように、睨んで、泣き喚くしかなかった。
ーー頭に血が上っていた。いや、それにも増して、この時の激しい憎悪の感触が今も残っている。今思えば、「何かを守る」という行為にこんなにも適している男がいるのか、という嫉妬に近い感情だったのかもしれないーー
「お前のような戦士が恐れるのか」交差した両腕の奥からのぞく、あの冷たい目。
「狂ってる!お前は人間じゃないんだ!!」誰かにこんなことを思ったのも、もちろん言ったのも初めてのことだった。
カラバンは、何も答えない。
「やろう」
そう口にしたのは、まさか、ロッチェだった。
「うん」
と、寄り添い、促したのはヨルチェ。
ーー2人の声がして、ここで私は我に返ったーー
屋根の上、中心に私、右にヨルチェ、左にロッチェ。
いつもの場所で、ようやく冷静になって、あの砂嵐の雑音が消えていることに気付き、はっとした。
望遠鏡を失ったこと、その喪失感を確かめただけではない。
私が知る必要のなかった、みずみずしく鮮明な音の世界が両耳に押し寄せていた。
たった一つだけで良かった生きる意味、色のない砂嵐の日常、それと引き換えに、私の中の矛盾にも似た多様な音が、無意味で愚かな意味の広がりが、無理やり与えられた。
「わかった」
私の霧の神之水が2人との間で膨らんでいく。まるで血管が繋がっているかのように自然と3人の中を出ては入ってくる。
それは、いつものこと、当たり前のこと。きっと私たちは、お互いが離れてみないと分からないことばかりだろう。
極大化した神之水が大輪の花の形に開ききる。
「カラバン!私たちのすべてを受けてみるがいい!!」
待ち構える男の右手がまた強く光る。
「はぁぁっっっ!!!!」送り出す感触で私は確信した。これは間違いなく、私たち3人の今までで最高の一撃だ……。
全方位型で密度の均等なーーどこかに力を集中すれば防げるという類ではないーーその神之水が、カラバンの頭頂部から爪先までを削り取るように襲いかかる。
屋根のレンガが剥がれ、四方に飛び散る乱気流の中、カラバンも「ぐっ」と一つ声を漏らす。
私とカラバンの間に満ちていた濃い霧がみるみるその量を減らしていく。
ついに、それらすべてを強靭な一人の男がはじき終えたその時、彼は、両腕の盾を解き、ふっと息を吐きながら胸を張り、一言「見事だ」と言って締めた。
「一つだけ聞かせて欲しい」何もかもがすっきり消えてしまった私は、カラバンに質問をする。「ーーその力であなたは何を為すつもりなのですか?」
「俺はこの力ですべての人間、団体、信念をねじ伏せ、分裂したものを一つにする」
この言葉は、私たちが待ち望んだ塔にとっての祝福"星の声"とは違う。
望遠鏡とともにあった私たちはもう死んでしまった。
そして今、私がささやかな笑顔を浮かべていることだけが紛れもない真実なのだ。怒りや恐れから生じた矛盾の笑顔ではない。自然な感情のともなう、単なる笑顔。
この男が、その力が、私たちから無慈悲に運命を奪い、生と死を奮い立たせ、ある神の使いの道具として生きる私に一つの進化の道を与えた。やっと一つ笑った程度の。
私は、胸に右手を添えて、深く頭を下げた。この感謝に似た感情をそのままに表現してみせた。そんな気まぐれである。
両脇のヨルチェとロッチェも、それに合わせて、同じポーズで頭を下げていた。私と同じことを感じ、同じ行為に至ったのか、それは分からない。
「仰せのままに死ねと言えば死に、生きろと言えば生きましょう。願わくば、この先どこまでもお供させて下さい、カラバン様」
3人の総意をもって、私はそう告げた。
身支度は、5分ほどで終わった。
私は、着替えをまとめた後、家をぐるりと回り洗面台で赤と黒の塗料の入った大きなボトルをあるだけリュックに詰めた。ヨルチェとロッチェも、それぞれ今着ているのと同じ着替えを数着と、彼女の方は家に一つだけあったクマのぬいぐるみを、彼は庭の素っ気ない味の柑橘類をいくつか、それぞれ持って来た。
「いこう」
主の呼びかけに、フロッグと、続けて私も、家に背を向けて歩き出す。
私たちが十歩ほど進むまで、ヨルチェとロッチェは家の方を向いて立っていた。目が見えていたら私もそこに一緒に並んでいたかもしれない。2人があとから追いついてもなお、私は、家の輪郭を、何もなくなった屋根を、庭の木々を、霧の神之水の感触で何度もなぞっていた。
その間も何か話しかけられていた気がするが、「ーーまず何かしたいことはあるっすか?」フロッグが横から聞いてきた。
「まず2人にリュックを買ってやりたい」私は買い出し用に使っていたものがあったが、2人は荷物を両手に抱えたまま歩いている。
「いやそういうことじゃなくって!あの家にほとんどこもりっきりっしょ?どっか行きたいとことかさぁー」
「ああ、それなら」
「お!どこっすか?」
「上質な服屋に行きたい」
「うーん……服屋っすか。ま、オシャレなんかもしてみたいってことっすかね?」
「いいえ。せめて普段は上着でも羽織らないと、カラバン様の品位に関わりますから」
「いやだから俺っちが聞いてんのは……ま、いいっすけど」もしかしたらフロッグは、突然3人も余所者が入ってきて落ち着かないのかもしれない。「ーーあ!じゃーあの2人も、ヨルチェとロッチェ?だっけ。前髪邪魔そうだし、目が隠れててちょっと不気味なんで、美容院でいい感じにしてもらうってのもどうっすか?」
つい最近も2人の髪を切ったのを思い出す。ヨルチェは特にあれ以上前髪を切るのを拒むのだ。
「ーーね!カラバン様!」
これは困った。主が望めば致し方ない。
先頭を行くカラバン様は、私たちに背を向け、行き先を真っ直ぐ見据えたまま、静かにこう答えた。
「構わん。それがお前のスタイルなのだろう」
私は、自然とヨルチェの方に注意を向けた。
「……はい」
彼女の口先が、驚きやこそばゆさを、その口角が、安心や嬉しさを、唇の震えがたまらない感謝を、不器用に表していた。
「フロッグ、あなたはかなりデリカシーに欠ける男ですね」
私も不器用に同僚を歓迎してみる。
「えーちょっと!おたくそういうキャラなんすか?……なんか笑ってるし」
私たち3人を縛りつけていた鎖は、望遠鏡からカラバン様の手元へと移り、しっかり握られてしまった。
私たちの運命を、呆気なく、劇的に、粉砕したあの拳に。
たったそれだけの変化が、あの砂嵐の音と引き換えに、3人の高まる鼓動を私の耳へと響かせていた。
巣の戦闘は、さらなる混乱の中にあった。
右手の止血を終え第2防壁を見張っていたユルカの元には、スレイヤーカラカが断続的に仕掛けてはくるが、それも気の抜けたものだった。
非選別者たちが離れて行ったのも含め、戦況は、カラバン様から伝えられた軍団長の作戦"旗艦自爆"を中心に動いている。すでに敵の母艦にあたる犬族のケージに第4軍団の旗艦が取り付き、離れなくなっている。
ヨルチェとロッチェを失い、敵であるホワイトから自分のルーツを掘り起こされ、記憶の中へと沈んでいたユルカを再び呼び起こしたのは、やはり主の声。
「非選別者が何か企んでいる!!阻止しろ!!」
ユルカのささいな心の揺らぎや人間じみた混沌は、この声で一つに調和する。迷いのない最速の神之水の攻撃が、白く輝く弓ーーホワイトの剣に似たそれーーを今にも引かんとする非選別者に放たれた。
ほぼ同時に、師団長クラスの同志たちも方々から攻撃を仕掛ける。
カンカンカン。ガガガガガ。
真っ先に目標へ到達したアリー家必殺の守護剣が、いとも容易く"黒い蹴撃"によって散らされた。
ガンガンガン。
間髪入れず、ユルカや第3師団長ニューノ・ワンらの放が集中砲火となって襲うも、"あの男"の目にも止まらぬ連撃がもれなく叩き落とす。たった一人で手数も質もこちらを圧倒し、背を向けたままの非選別者の注意を削ぐにも至らない。
我が軍の最大火力とも言える攻撃を息も乱さず無力化したその男は、ユルカがこの空域に来てすぐ不意打ちした相手。背中への一撃にもかすり傷一つ受けなかったあの戦士。桃園と同様に城壁の封印から目覚めた"英雄"の名にふさわしいハチマキの男。
ーー憎たらしい……。
「あいつはいったい何者だ!?」
と、仲間の誰かが感情のままに発する。
「ぐぁぁぁぁぁ!!」
ユルカの主の、喉の太い獣のような雄叫びが、周囲の空気を震わせた。ホワイトという強敵、非選別者の謎の企みが切迫する中、すべての制圧に必要な真の力を解き放つその姿。
ーーが、次の瞬間。
ドォン。
初めの音は、何重にもなる分厚いものの奥から、それでも規模の大きさを十分に伝える重たい音。
ズドォン。ゴゴゴゴ。
ガン。ドン。ズガン。
次々とそれに誘発された別の爆発音、金属たちが溶接された部分から、あるいは大きな板面を突き破るように、悲鳴をあげ引きちぎられる音。
周囲の人間にぶつけられる空気の波。
それらが、神之水エンジンの爆破からなる"第4軍団旗艦自爆の時"を戦場全体に告げた。
それからも第2波、第3波と、各ブロックの飽和した熱や空気が飛び出すたび起きる爆発の余波が、炎が、吹き荒れた。その流れの中、旗艦の小さな破片と同列に大勢の兵士たちの身体が舞う。
ユルカは、起きたことより、継続する主の命令の遂行、弓を構える非選別者とそれを守護する戦士に意識を向けたまま、しかし攻めあぐね、苛々を募らせていた。
結局のところ、その"奇跡"ーー運命への抵抗ーーの一部始終をただ見ている一人の観衆になるしかなかった。
ついに非選別者の矢は放たれ、軍団長にも匹敵する規模の神之水が無数の巨大な尾となり矢を追従していく。
軍の旗艦に巻き付かれた大部分を切り捨て、分離した敵の艦首ーーおそらくそこに乗員が集まったのだろうーーが、その標的だったようだ。先頭の矢も無数に分かれ、回転し、後続の尾の群れをその艦首に這わせ導くように走った。
そして、全てを覆ったかと思うとたちまち霧散し、爆発の余波に飲み込まれる寸前だった艦首もろとも、消えてしまった……。
直後。
ユルカのまぶたにも伝わるほどの閃光。彼にほど近い空域から。
光源より、シュゥゥゥゥ、と空気が漏れ出す。
戦場の全ての生ける者が視線を注ぎ、そこで起きる奇跡を確信した。
別の空間から漏れ出たであろう音がみるみる轟きとなり、相応の体積、質量のそれが、非選別者の頭上へと出現する。
空間移動を終えた敵の艦首である。
周囲にまとわりついた矢の群れが花火の終わりのような音とともに消え、快調なエンジン音だけが周囲に響いていた。
「……信じられない」
誰かが呟いた声が、ユルカの耳にも届く。
軍の多くの兵士たちの魂に、いや、ヨルチェとロッチェの死に、勝手な明暗、失敗と成功、失望と歓喜の判決が下されたようだ、そうユルカは感じた。
それからすぐ、勝者たちのはしたない叫びにユルカは取り囲まれていった。
彼の前の空域に、力の結晶、最強の主の燃え尽きた背中がゆらゆらと浮いている。
自らの乏しい感情を、まわりの喜び叫ぶ者たちとの対比によって、おそらく悲しいのだ、とユルカは想像した。
カラバン様の従者となってからも結局、私たちはずっと3人……だから、君たちのことも分からないままだったよ。誰だって直接自分の顔なんて覗き込めないから。
でも、離れた今なら少し分かる。
ヨルチェは、ともに家を出たあの日、カラバン様の一言に嬉しそうに笑ったのだ。
ロッチェは、私が苦手だったあの柑橘類の味がけっこう好きだったみたい。
私と君たちは別々になった。
生きて、そして、死んでしまった。
そう、まるで人間じゃないか。
本当に幸せそうに。
不幸な2人。
私は、悲しくて、嬉しい。
カラバン様……。
私たちを人間にした罪深き、至高の御方。
愚かな人間などには到底守りきれない道を、圧倒的な力で守り導く存在。
もし神がいるのなら、どうか今この瞬間だけ私のこの目で見たいのです。
今あなたはどんな顔をしているのですか?
あとがき
冒頭の神の使いのお告げにある「死と生」「運命と抵抗」という相反する単語は、原作にてユルカの体に刻まれている英語より。相反する感情が同時に湧くという彼のキャラクターもここから。
望遠鏡とともに3人が暮らしていた場所は、塔の高い階ではないけど、中間地域の陸の最果て、塔の外郭にかなり近い場所、という設定。「星の声」や「望遠鏡」などについても独自の設定で、またそれをユルカたちの親を含む大人がどこまで信仰し、どれだけ邪念があったのか、についてははっきり決めていません。少なくとも彼らがいなくなる直前は"怪しかった"と考えています。
カラバンの信念や言動もかなり狂人なのですが、今回は対するユルカもだいぶ普通じゃない環境で育ってます。なので、第1話のフロッグ視点とはカラバンの見え方も大きく異なる、そんなところも楽しんでもらえたら嬉しいです。
ではまた、もしよかったら次回のお話で。