短編小説

【短編小説】いいか、耳の穴かっぽじってよく聞け。これは服部ではない。

そう言われて、もちろん僕は、もう一度聞き返した。
「これはハットリではない」
服部の家の前で、黒のサングラスに黒のスーツの、“いかにも”な男は、確かにそう言った。「ハットリ」というのは、今その男の隣にいる、僕の幼馴染で親友の服部拓也(はっとりたくや)のことを言っているのだろうか。
色々とおかしな状況ではあったが、何よりそのコトバを言葉として認識し、そのハットリを服部のことと理解するまでに少し時間がかかった。
その文章の意味が分かっても、(僕が周囲に無関心なのは十分自覚するところだけど、さすがに)「ふーん」とか「へー」で聞き流せず、仕方なく、ただ、サングラスの男と拓也を交互に睨(にら)みつけるしかなかった。
しかし、そのわずかな沈黙で、まず一つ納得がいった。
「ここにいるのは服部拓也じゃないってこと?」
と、もう一度、慎重に確認し、時間稼ぎしながら僕は、ここ最近、拓也に対する何かしらの違和感が“あったような“気がして、その感覚と合点がいった。そう思えた。
「そうだ」
と、サングラスの男。
そこで、僕はもう一つ納得がいった。
というか、すべてが腑(ふ)に落ちた。
よくある“アレ”だ。
小学校で転校していった女の子や、高校で知り合った友人、果てには両親や芸能人までもが、同じ教室で普通に喋っていて、それが当たり前のように感じる。はたまた、見知らぬ地下室や異様な街の風景が以前にも来たことがあるような気がして彷徨(さまよ)う。
そう、これは、夢だ。
と思い至った途端、なぜか『そうすべきだ』という衝動のまま、サングラスの男を突き飛ばし、その場を逃げ去る前に一度振り向くと、拓也はあの愛嬌ある笑顔でこっちを見てて。
そのまま一生懸命走って。
遠くへ。
景色が絵の具のように。
重く流れて。
体もどんどん、重くなってーーー。

以上が、今朝起きてからすぐにおさらいした夢の内容だった。
1階に下りると、母がいつもの調子で「おはよ!」と声を掛けてくる。
「おはよう」
僕は、500wで牛乳をチンしている1分間も、ずっとあの夢を思い出していた。黒ずくめの男も、意味不明なあの台詞も、今考えるとそのあまりにも滑稽な舞台で一丁前に緊張していた自分も、全てが面白く思えてきた。
そうして、満足そうに、温めた牛乳をすすっている僕に、
「まーたアホ面してるぞ」
と、父からの第一声。母の心地よい朝の挨拶(あいさつ)とは打って変わってのまさに“ご挨拶”である。いや、誤挨拶?まあ、こちらもいつもの調子。
しかし、実の父親に朝からこんな侮辱を受けても、満面の作り笑いで返せるぐらいの、思い返すたびにおかしな夢だった。
『いや、これは父ではない!』
ついでに、心の中で、自分の父親に“とれたて”のネタを使ってみるのだ。
ドヤ。
しかし・・・父でなければ何だと言うのだ。
もう少し掘り下げてみよう。
そうーーー。
『これは乳である』
いや、確かに、今僕がすすっているのは牛の乳だ。しかし、これは、その父が得意とする、そして僕が目の敵(かたき)にするところの、そう、ダジャレである。
『これはダジャレである』
2回言わなくていい。心の中で。
睡眠の質が高かった証拠なのか、夢を見た日というのは明らかに寝起きが良い。だが、そのことを差し引いても、今日は調子が良いように思う。清々しい。
自室に戻り、学校指定のサブバッグにジャージと弁当を入れながらも、
「これはバッグではない。リュックである」
と小さくつぶやいて、手持ち用につけられた2つの持ち手を左右の肩へと順番に通した。ちなみにリュックサックはドイツ語だ。
「いってきまーす」
「いってらっしゃい!」車で出た父を見送ってそのまま玄関先にいた母が、またいつもの調子で言った。
今日は『これは◯◯ではない』を見つけるために、僕は行ってきますよ、という気になっていた。
わざとらしく眉間(みけん)に皺(しわ)を寄せ、周囲への警戒を高めながら、いつもの駅までの道を歩く。
住宅街を出ると、向かいには、
「あれは八百屋ではない」
近くに小さいながら商店街があり、その入り口、大きな道路に面した一等地に、その八百屋がある。いや、八百屋ではない。僕はあそこが開店しているのを見たことがない。母は、たまにやってるわよ、と言っていたが、たまにやる八百屋があってたまるだろうか。仕入れや集客において、たまにやる、という行為が成り立つのだろうか。これが自営業というやつなのか。
『そんなことでは、おやおや、である』
この発言は、一人で歩いているとはいえ、心の中でつぶやくだけに留めた。息子を小馬鹿にすることしか考えていない父の顔が目に浮かぶ。やっぱり血は争えないのか・・・。だいたい、血は争えない、って当たり前じゃないか。血は抗(あらが)えない、の方がしっくりくる。
少し痛手を追ったが、それでも気分は良い。
駅までの直線に差し掛かる所に、大きな2階建ての家がある。
その庭には、まあ中くらいのサイズかな、犬がいる。吠えたりはしない。
「あれはシェルティではない」
シェットランド・シープドッグという犬の愛称だ。
それを最近知って、ただ言いたかっただけなのだった。
でも、もし、シェルティでもなく、犬でもないとしたら、あれは何だろうか。
そう、僕は、あの犬が吠えたところを見たことがないのだ。これは諦めるにはまだ早い。んみゃぁ〜お、と鳴けば、それは猫だ。
ーーーもし。
朝、寝室からガウンを羽織って起きてきて、キッチンに飛び乗り、妻の頰に軽くキスをしてから、少しだけ見つめ合ってーーー、そのひと時をこの世界の何よりも愛おしく噛み締めてーーー、そこから口角をちょっと持ち上げて柔らかく「おはよう」と言ったなら、それは紛れもなく、“よく出来たご主人”ではないか!
たとえ、見た目がシェットランド・シープドッグだったとしても!
「おはよう、ご主人」
お互いが見えなくなるまで、ご主人は不思議そうな顔で僕を見つめていた。
駅に着き、改札までの階段を上った所で、顔見知りの清掃のおじさんが、
「おはよう。今日もがんばってな」
と声を掛けた。
「おはようございます。おじさんもがんばって」
だが。
しかしーーー。
『あれは清掃のおじさんではない』
手のひら、親指の付け根の肉厚な所に、注射器を使って、小さなICチップを埋め込む技術が一般的になった現代。1年間の通学定期の購入をしている僕が半径2メートル内にいることを感知すると、『二足歩行型全自動AI清掃ロボットである』ところの彼は、単なる「おはよう」にさらにもう一言添えることで、お得意さまのご機嫌を伺(うかが)っているわけなのだ。
ごめん、清掃のおじさん。
若気(わかげ)の至りです・・・。
改札ではもちろん、左手の平に内蔵されたICチップをかざす“素振り”を織り交ぜながら、右手に握った財布ごと、中のICカードをしっかりパネルに押し付けた。
憂鬱(ゆううつ)な満員電車に揺られる間ぐらいは、音楽を聴きながら穏やかに過ごそう。
しばし休憩。

高校の最寄り駅、森谷(もりや)で降りると、男だらけの同校の生徒たちが波となり、その流れに乗って歩いて行く。
比較的気ままな下校の時間とは違い、男子校生が群となり、この密度で歩いていると、特に1人で登校している者たちは、互いの距離感に多少なりとも気を使う。
そう、森谷からの20分の道程は、盛(さか)りのオス同士が、ツンツン立てた鬣(たてがみ)で互いを牽制(けんせい)し合い、他のテリトリーを侵(おか)すか侵さないかと、ギリギリのせめぎ合いを繰り広げる、
『ここは、今ここに限っては、日本ではない。そう、サバンナである。ーーーいいか、もう一歩、いや、もう半歩こちらに踏み込んだが最後・・・お前が授業中電源を切るのを怠(おこた)ったスマホに、鬼のように電話をかけてやる。脅(おど)しだ、などと思わない方が身の為だ。これは、ハッタリではない・・・』
ハットリ。
服部。
そういえば、今朝の夢に、もし、前後のストーリーがあったのなら、「服部ではない」という言葉には、どのような意味があったのだろうかーーー。
その考えに至ったところで、結局電車を降りてからもずっとしていたイヤホンから、お気に入りの曲が流れ始めて、夢のことも、男子校生同士の微妙な空気も、しばらくはどうでも良くなってしまった。
校舎が見えてくると、周りも皆、イヤホンをカバンにしまっていった。

下駄箱横の階段を3階まで上がる。
すぐ正面の教室に入ると、窓際に目をやった。自分の席の一つ前、山田はいつも僕より遅いのだが、今日は先に来ているようだ。いつも夜寝るのが遅いようで、前の晩の深夜と朝の登校で1日分のエネルギーを全て消費したかのように、机に突っ伏している。
僕は、その山田の丸まった背中めがけて、軽く右手でぺんとしながら、自分の席に着いた。「ふぃー」
誰が見ても不機嫌そうな顔で、頭を掻(か)きながら、
「・・・なんだよー」
と、振り向く山田。彼にとって不幸だったのは、その”誰が見ても“の唯一の例外が、後ろの席の奴だったことだ。その為、頻繁(ひんぱん)にちょっかいを出されては、
「よっ! いい朝だね」
などと、いいかげんに扱われる。
「・・・知らね」と言って、ゆっくりとまた机に突っ伏してしまった。
山田はこう見えてとても愛嬌(あいきょう)のある奴だ。というか、愛嬌を振りまく必要があるのは、愛嬌がない人のすることであって、机に突っ伏し、両腕でしがみ付くように、コミュニケーションの一切を拒絶する形を作ってもなお、後ろの奴に用もないのにちょっかいを出されるのだから、こいつより愛嬌のある奴はいない。と、僕は思う。この背中からは、一抹(いちまつ)の拒絶感も出ていないのである。と、僕は勝手に感じる。山田こそ愛嬌。山田こそ癒(いや)し。
しかし、
『これは山田ではない』
と、僕は考えることにする。
いや、待て。
山田ではあるが、
『これは男子校生ではない』
と、しようーーー。
男子校生でも、人間でもない、“山田”の生態は、夜行性。昼間を含めた1日のほとんどを睡眠時間にあてる。日本語の「なんだよ」や「知らね」に似たいくつかの鳴き声で互いに意思疎通(いしそつう)を図ることが出来る。山田は、哺乳類の中でも有袋類(ゆうたいるい)に分類され、赤ちゃん山田は、ある程度成長するまで母山田のお腹にある袋の中で育てられます。その後は、母山田の背中やお腹にしがみついて生活するのです。オーストラリアには、野生の山田を保護する山田基金という団体がありーーー。
『山田はコアラである』
さてさて、今日は一限から古文か・・・。
古文という科目が、義務教育の中で存在し、大学受験にもかかわるというのは、いかがなものか。知ることが無意味とは思わないが、大学で学ぶとか、高校でも、日本史とか世界史とかと一緒に「地理歴史」の1科目として選択科目にしてはどうだろう。その分、英語とかプログラミング言語とかに時間を割いた方が、有用な気がするのは、僕だけだろうか。
そういう意味では、山田コアラの気持ちも分からなくもない。
古文、漢文、日本史、世界史、公民などなど。これらを常食する山田コアラは、これらに含まれる毒素を消化するのに多くのエネルギーを必要とする為、その生活のほとんどを睡眠に費やす必要があるのだ。
ふむふむ。可哀想な山田コアラなことよ。
僕は、どちらかと言うと、やらねばならぬのなら楽しいと思い込もう、という人間なので、この思考や工夫が、山田コアラとの文化的違いである。しかし、山田コアラの存在が、僕にとっての癒しとなり、思考や工夫のエネルギー源でもあるので、僕は彼に足を向けて寝られない立場なのである。
そう言えば、朝、担任から、服部が熱を出して休みだと聞かされた。
幼馴染で親友の服部は、たまたま同じ高校に進み、高2にして実は初めて、僕と同じクラスになった。
今朝の夢は、何かを暗示していたのだろうか・・・。
ーーー窓の外を見ると、登校中は日も出ていた空が、不気味な雲で覆われていた。
老人は言う。
『これは何か良からぬことが起きるやもしれぬ・・・』
と。
いうようなことは全然ない。
せっかくの「何か良からぬことが起きるやもしれぬ」のチャンスだったが、秋晴れの空に霧散した。

今日も、平和で、少し退屈な高校での1日は、こうして流れて行く。
日中のダイジェストは、
・『これは早弁ではない。遅い朝ご飯である』
・『これはシャープペンシルではない。メカニコーペンソーである』
・「これは3限ではない。4限である」これは、数学Bの時間に、一人だけ英文法の教科書を広げている山田コアラの背中を突いて言った一言。
・『これは黒板消しではない。岡部の筆箱である』
・『これは昼休みではない。昼活動である』山田コアラの学校で唯一の活動時間を評して。
・『これは昼飯ではない。遅い朝ご飯の残りである』
・『これはサッカーではない。球乗りである』いや、まあ、球乗りだとしても失敗。膝を擦りむいたわけです。僕は、球技の中でも、サッカーが特に苦手だ。
 そういえば、昼休みに、服部にLINEをしたが、午後になっても返事はなかった。

6限も終わり、ホームルームも終了。
「んん〜」少し伸びをして、ついでに、あくびをした。
いや、これは!
『これは伸びではない』
答えは『あくび』を漢字変換してみれば分かるのだ。
さあ、家に帰って菓子でも食べながらYouTube見るぞー、と思った矢先、
「吉田」
と、担任に呼ばれる。
「はい」
教壇まで出ていく。
「服部の家、近いんだったっけか」
「近いですよ」
「別に急ぎでもないんだけど、ーーまあいいか。いいやな」
「いやなんかあったら全然言ってください。ほんと歩いて10分もしないんで。様子見がてら行きますよ」
「そうか。じゃあ、土日も挟んじゃうからお願いしようか。ほら、進路希望の用紙」
「ああ」
今朝のホームルームで配られていたんだった。
「あと、ついでに、飲めるゼリー2つ入れといたから」
「お、さすがですね、先生!」
風邪のお見舞い。
「もしあんまり食べれてなかったらな。ほら、服部んとこお母さんも仕事出てるだろ」
「そーっすね。じゃあ、確かに届けます」
「おお、よろしくな」
「はい。失礼します」
高橋先生は、けっこうあけっぴろげな性格で生徒にも慕(した)われている。
確かに、言われてみれば、母もいない家で一人で寝込んでいれば、ゼリーの一つでも持って行ってやるのが親友ではないか。
僕は、本当に服部の事を親しい友達と思っているんだが、こういうことには全く気が回らない。
帰り道は、若者らしく、少し自己嫌悪を噛み締めながら帰った。

地元の駅から、自宅に帰る最後の曲がり角が見える。
その1つ手前を入れば、少しだけ服部の家に近道だ。
家にいるのが服部一人なら、玄関のチャイムで出て来るだろうか。
眠ってたら起こすのも悪いな。
この距離まで来ちゃったけど、もう一度LINEしてみよう。
「起きてるかー?」
「元気かー?」
「病気かー?」
少ししても既読もつかなかった。
やっぱり寝てるのか。
いや、服部は俺と同じで平気でLINEに気付かないことがある。なんとも言えない。
うん、やっぱり、チャイム鳴らして、出なかったらポストに入れておけばいいな。
あとでまた「高橋先生からだよー」とでも送っておこう。
ちょうど方針が固まったところで、服部の家に着いた。
マンションの1階、通りから数えて3つ目、服部の表札。
チャイムを鳴らす。
家の中からやけに響く足音。
僕は、玄関のカメラに映るように立ち、なんとなく左上の方を見上げながら、腕を組んでいた。
扉が開くと、なんてことはない、服部の、服部らしい出で立ちで、気の抜けた笑顔の、服部が、出迎えた。
「どうしたの?」
と、服部。
うん。そうだな。
「まあ、あがってってよ」
と、続けて、服部。
間違いないーーー。
「お前は、服部だ」
言ってやったぞ。
「え?」と、ニヤけて聞き返す、その抑えきれない含み笑いが、動かぬ証拠だぞ。「朝は熱あったんだけど、午前中のうちに元気になっちゃってさ」
「ああ。まあ、あるよね」
僕も少しニヤけているのが自分でも分かった。
たまたま、今日こうして意識しているが、まさか、2人でいる時はいつもお互いニヤけているのだろうか。それは少し嫌だ。
「とにかく、中で話そうぜ」
「お邪魔しまーす」
そして、くだらないことを延々話すのである。今日も、英文法の橋本が、一番前の柳舘(やなぎだて)に癇癪(かんしゃく)を起こした場面の再現は外せない。橋本のモノマネはテッパンなのだ。
くだらなくて、しょうもなくて、そして、どうしようもなく笑いを誘う。
こんな、歪(いび)つで、でも、“しっくりくる”奴は、服部しかいない。
無関心な僕が、自分の存在以外は何も確かではないこの世界において、それでも、こいつは服部だな、と安心できる。
それが、もし錯覚だとしても、そう勘違い出来る出会いに、僕は、感謝しようと思ったり。

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