短編小説

【連続短編小説】<プロローグ>残念な探偵ーMore’s the pity, she is detective.ー

梅雨とはいえ、兄の家を出た途端に雨が降り始め、電車を乗り継いで訪れた住宅街の一角に「ミヨミヨ探偵事務所」の看板を見つけた頃に、雨が弱まってきた。
1階がクリーニング屋、の2階。
傘を閉じる。
手摺(てす)りを掴むと手が真っ赤になりそうなくらい錆(さ)びた外階段。
上がった先に、玄関というには頼りないアルミ枠の扉があった。
待ち合わせの15分前、もう少しだけ時間を潰してから来るべきだったか、と思いつつ、扉の横のチャイムを押した。
10秒ほど待っても中の気配すら感じられず、もう一度チャイムを鳴らした。
やはり返事はない。
メールに書いてあったケータイに連絡するか。どうするか。
もう少し時間を調整していれば・・・。
相手が出先であれば、今頃、事務所には向かっているはずで・・・。
ーーーその時、中から何か物音が聞こえた。
事務所に誰かいるようだ。
しつこくチャイムを鳴らすのも気が引けて、なぜか扉に手を掛けてしまう。思い切って。
鍵は開いていた。
扉を手前に引くに連れて、蝶番(ちょうつがい)の部分がびっくりするぐらい大きく、不快な音を立てた。
初心者が弾くバイオリンのような音。
僕は、遠慮気味に頭を低めながら、入って行った。
「こんにちは・・・」
ああーーー。
僕という人間は、どうしてこうなんだろう。
こういう時に限って、そう、思い切ってしまうんだ。
まだ顔も合わせたことのないバイトの面接先に、鍵が開いていたからといって、そのまま進入してしまうなんて、普段は絶対にそんなことしない。
僕は、もっと慎重で、臆病で、必要以上に遠慮深い、そんな人間なのに。
それなのにーーー。
忘れもしない。大学1年の時、初めてのバイト。初日。実際は僕より3つも年上の先輩に「今日からよろしくね」と、何故(なぜ)か!本当になんでか!年上風を吹かせてしまうというミス。同い年や年下相手でさえも距離を取って、なかなか敬語が抜けない、そんな親しみ浅いのが、僕という奴なのに!
決断力も、行動力もなく、不安なことが多い。
そんな僕にとって、万に一つもないはずのことが、稀(まれ)に、自然と、スーっと、“出来てしまう”時がある。そういう時に限って、という表現では生温(なまぬる)いほどに。
この時は、事務所の窓際、大きなデスクの奥に女の人が立っていて。
その人は、色素の薄い、金色の髪をした綺麗な女の人で。
それから、デスクの手前には、スーツの男の人が、
大の大人であるはずのその人が、
大胆に、
尻もちをついていた。
「出てって」
と、女性の方が言う。
「・・・頼むから、無茶をしないで欲しい」
男の人は、きっととんでもなく優しい人だ。人に思い切り突き飛ばされても、その言葉に、少しも相手を責めるような語気が感じられなかったから。
「何かあったらーーー」
「出てってよ」
その女性は、彼の言葉を遮(さえぎ)って、同じことを、ただそれだけ言った。
男性は、軽く眉間(みけん)に皺(しわ)を寄せ、それでも優しい目で、つまりは困り顔で、彼女を見つめて。
そのうち、僕の前を通り過ぎて、部屋から出て行った。
「ごめんなさい。もう時間だったね」
と言いながら、僕に向かって、女性はデスクから出て来る。
少し反応が遅れて、
「あ! 全然。すいません、こちらこそ。その・・・少し早く来てしまって」
と、僕は下を向いた。
「あ、扉も開いていて、勝手に入ってきてしまって・・・すいません」
とにかく謝る。言ってから、なんだか言い訳がましくて、腫(は)れ物にでも触るような言い方で、逆に気まずくさせてしまっただろうか、と思った。
気にした僕が顔を上げると、彼女は、思ったよりスッキリした顔で、
「いいえ」
と笑った。少し上目遣いで、僕の目を真っ直ぐに見つめて。
改めて、綺麗な人だ、と思った。その顔立ちは、日本人離れしていて。というか、髪がこれだけ透けるような金色なのだから、外国の人なのだろう。化粧は、日本人の中でも薄い方だと思う。目も鼻も口も、全て、誇張がいらない出来映えなのだから頷(うなず)ける。
「こちらこそごめんなさい。ソファにどうぞ」
と言って、部屋の中央、テーブルを挟んで向かい合ったソファの片方を、彼女の右手が示した。
流暢(りゅうちょう)な日本語には何の癖(くせ)も感じられない。ハーフだろうか。
先に座ってから、目の前の女性が座るのを待っていて、彼女の服装に気が付く。この状況には少し似つかわしくない、それでも、この人にはとても似つかわしく思えるその装いは、白地に赤いプリント柄のTシャツ、薄い色のデニム、シンプルそのもの。
「フォークシンガーみたいですね」
自分でも驚いた。
さっき"しでかした"ばかりで、また思い切ったことを言ってしまった。
「あら、そんな気の利いたこと言ってくれるのね?嬉しい」
褒め言葉と取ってもらえて良かった。けど、少し子どもに見られているのかもしれない。
実際、僕には、喜ぶ彼女に、さらに気の利いた言葉を返す器量はない。
彼女が続ける。
「改めまして」少し正面に向き直して、「ミヨミヨ探偵事務所の社長、兼、調査員の真日推 水世(まけおし みよ)です。今回はアルバイトのご応募ありがとうございます」と、彼女は深く頭を下げた。
「いえいえ」
僕も、釣られて、鏡のように彼女を真似(まね)た。
「送って頂いたメールを見ながら、お話しさせて頂きますね」
スマホを取り出して、テーブルに置いた。
「はい」
「雨川 類(あまがわ るい)さん。23歳」
彼女は、一瞬、目だけでこちらにアイコンタクトする。
「4年制の大学の、文学部、を卒業して、就職はしていない、ということですね」
「はい」
「あ、ごめんなさいね」と、彼女。「見ての通り、堅苦しいのは苦手で、話の内容も形式的な質問なので、気楽にね。リラックスぅー」人の口ってこんなに尖(とが)るのだ、口の縁(ふち)まで筋肉があるんだ、という顔。
僕は少しニヤけてしまう。
「はい。就職活動はしたのですが、やはり周りと比べても、必死さに欠けるというか・・・ことごとく落とされてしまって」
「うん。周りと比べることに意味はないわ」
そういう言葉が、何の淀(よど)みもなく、出てくる人なのだ。
「あ・・・」途端に自分が恥ずかしくなった。「そうですよね」
「あなたは、あなた自身の経験や実感で、就職活動に必死になる意味を見出せなかった。それは何も恥じることではない。そして、今すぐ就職しなければいけない切迫した状況にもあなたは置かれていない。そうでしょ?」
あまりの力強さに引かれるように、顔をしっかり正面に向けると、やっぱり僕の方を見つめている彼女の顔と、一瞬、見つめ合う。
「・・はい」
からの笑顔。
「そして!自分の生活は自分で、ということで、バイトに応募した」
「都内で・・住み込みで、ということでしたので」
「君は正しい!類くん。私のことは、水世さん、でいいからね」
「あ、はい」
落ち込まされて、励まされて、あまりにも“上手すぎて”、とてもくすぐったい気分だった。でも、目の前の真摯(しんし)な女性、“水世さん”は、とても計算でそういうことをしているようには見えない人だ。同じ言葉をくれる相手でも、少し大袈裟で、苦手なタイプも沢山いるけど、水世さんの雰囲気は、不思議と嫌ではなかった。僕が男で水世さんが素敵な女性だから、という揺るぎない事実も認めることに吝(やぶさ)かではない。
「今は、1人暮らし?」
「歳の離れた兄がN区に住んでいて、1ヶ月ほど住まわせてもらっています」
「なるほどね。ふぅん。料理は?」
「え・・・あ、料理はー、大学通ってる時も一人暮らしで、自炊していたので、まあ、それなりに」
「なるほどなるほど」
少し嬉しそうな水世さん。
すると、突然。
「聞いてばかりなので、私について、何か聞きたいことはある?」
「僕がですか?」
意外な質問に、頭が真っ白になる。
「僕がですよー・・・ふん。と言われても、面接を受けに来て、なかなか驚く質問よね。就活でも絶対出ない質問だし」
大きな目をさらに大きくして、水世さんが言った。
少し口元を緩ませて、
「そうですね。女性に年齢を聞くわけにもいかないですし」
と僕。
「そんなことが聞きたいの?」
「いえ、例えば、です。本当に聞きたいのは体重です」
調子に乗って、訳の分からない冗談を言ってしまった。
「類くん! あなたあまり女の子と付き合った経験ないわね」
彼女は、なぜか嬉しそうだ。
「ちなみに、歳は35歳、体重は昨日測った時、ちょうど60キロぐらいだったわ。きっと君の方が少し軽いでしょう?」
「あ、はい」
なんであんな冗談を言ったのか、相手がこの人じゃなかったらどうなってたんだ、と思う。
「僕、身長170ないので、体重も57.2とかでずっと。・・えーと、水世さんは、」
「はいはい」
「ーーー日本の方ですか? その・・・」日本語がお上手というのも、見た目はどうとかも、失礼にあたるのでは?と言葉が詰まった。
「見ての通り、血が混じってるの。ドイツと日本のね。母がドイツと日本のハーフ、で、父がドイツ人。でも、両親は日本に住んでいたから、私も日本で生まれて国籍も日本。母もずっと日本で育って日本語しか話せないし、父も日本語は上手だったから、私も日本語と、英語が少し話せるだけ」
「そうなんですね。ハーフの方かな、とは思ったんですけど」
「私の髪、この色ハーフではほとんどあり得ない色みたい。この目も」
と、彼女は、身を乗り出して、右目をあかんべして見せた。
覗き込むと、
「青い、ですね」
だった。
「・・金髪で、青い瞳なんて、かっこいいですね」
「金髪碧眼(きんぱつへきがん)の美女探偵よ」
「英語少ししか喋れないですけどね」
「こら!」
金髪碧眼の美女探偵が、僕を睨む。
「少し“出来る”のよ。さっきも言ったでしょ。私がこんな見た目だからって、他の外国人と比べても意味がないのよ。ちゃんと身振り手振りで道案内とか出来るんだから」
「はい」
確かに、この見た目でーーー、と他人と比べるのが馬鹿らしいくらい、水世さんは、とても話しやすく、賢いのにチャーミングで、つまりは魅力的な大人だ。そんな水世さんが身振り手振りで外国人に道案内している姿も悪くない。
「さて、では、本題です」
「え、今までのはなんだったんですか?」
「興味本位のおしゃべり。ちょっと照れ隠しかな」
その意味はすぐには思い当たらなかったけど、
「はい、なんでしょうか?」
と、僕は会話を進めた。
「車の免許を持っているということですが、ペーパーじゃない?」
「あーはい。大学の2年生になってすぐ免許取って、週に2、3回は乗ってました。月に一度は、1時間かけて実家にも帰ってましたし。まあ、だいぶ慣れました」
「それは素晴らしい!」
「でも、追跡する、とか、そんな技術はありませんよ」
「追跡って誰を?」
「誰っ・・・犯人とか?」
「ふふ〜ん」彼女は、わざとらしい感動詞を余韻(よいん)たっぷりに言った。
「・・なんですか?」
「いいえ。じゃあ、住み込みの環境について説明して、あとは、雇用契約書の確認をしてもらって」
「あ、すいません!仕事の内容とかは?」
「それは大丈夫です」
「えっと・・・Whatの疑問文ですけど、大丈夫っておかしくないですか?」
「What a beautiful detective!」
「いや疑問文じゃないし。やっぱり英語は少ししかーー」
「仕方がないので、ついでに仕事の内容についても説明してあげましょう」
それから20分くらい仕事の内容について説明があった。ホームページにあった通り、浮気調査が主な収入源らしい。顧客は女性が多いことから、女性がやっている探偵事務所というのは、それで需要があるそうだ。男には浮気遺伝子を持った人がいるらしい、とか、そんな話も聞いた。僕の仕事は主に、ドライバーと、会計、調査報告等の事務作業らしい。まあ、だいたい想像に近かった。
住み込みの環境について、一番驚いたのは、水世さんもこの事務所で寝泊まりしているということ。バイトを事務所に住み込ませるのだから、責任者としてはそういうものなのだろうか。否(いな)。別に家があるということはなく、以前からここで生活しているらしい。水世さんのベッドはこのソファだという。しかも、風呂はなく、銭湯通い(回数券をくれるらしいので金銭の負担はない)。「シャワーだけでも付けるのも手なんだけどね」と言ってから水世さんは、「でも私、湯船に浸からないとダメなのよね〜」と、一人で納得していた。あとは、事務所のトイレ、台所を見て、「洗濯機は?」と僕が聞くと、「下のおばちゃんが、2、3日に一度、そこのカゴに入れといたのを、クリーニングしといてくれるの。仕事のついでだからって。悪いから月に1000円だけお支払いしてます」という回答。詳しく聞くと、以前クリーニングの客で悪質なクレーマーがいて、水世さんが法律の知識で打ち負かしてやったらしい。頼もしい話だ。
“物件”の案内も終わり、またソファに座り、契約書の確認をした。
「ーーー週休2日で週40時間。シフト制です。まあ、2人きりなので、事前に押さえた予定以外は、割と融通利かすから」
「はい、分かりました」
こうして僕はミヨミヨ探偵事務所に入社した。

「ーーーじゃ、荷物はうちの車使ってもいいから、また明日、午前中のうちに来て下さい。仕事は明後日から教えます」
と言いながら、水世さんも僕も立ち上がる。
「はい。よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
水世さんは、僕よりも深く頭を下げた。
「あ、私も買い物出ようかしら。牛乳ないのよぉ」
「それなら傘持った方がいいですよ」
「え、今降ってるかしら?」
窓の外を見る水世さん。
「今はたぶん降ってません。でもすぐ降り出します」
「随分ピンポイントな予報ね。お天気マニア?」
「いえ。僕はそういう奴なんです」
「なにそれ!ま、いちおうパーカーでも羽織って行こうかな」
傘を持ってくよう何度か忠告したが、
「すぐそこだし」
と、水世さんは聞かなかった。
2人で事務所を出て階段を下り終えると、
「ーーーえ、うそ!?」
大粒の雨が、音を立てて降り出す。
「今からでも傘、良かったら取ってきますよ?」
「ほんと凄いね。雨男?」パーカーのフードをかぶった水世さんが、僕を上目で覗き見て、堪(たま)らず笑う。「ーーーはぁ面白い・・・。うん。走ってくから大丈夫!運動運動」
「雨だけならいいんですけど、僕、天才的に“間が悪い”んですよ。それだけは自信があります」
「そういうこと言わないの! じゃ、また明日」
「あ、はい。では!」
僕は、走り去る水世さんに向けて、少し大きな声を出した。
僕の自慢の“間の悪さ”を物ともせずに、水世さんは、スニーカーで走って行く。
雨の中、その飛び跳ねる背中を、僕は、少し立ち止まって眺めてから、自分の心も濡れた道路をぴょんぴょん跳ねたがっているのを確かに感じつつ、歩き出した。

See you next bad time!

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